【世界のゾッとする歴史の『雑学』③】ウクライナの複雑な長い歴史(1)

【 世界のゾッとする歴史 】
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首都キーウ(キエフ)が重要な場所である理由

ウクライナの歴史

ウクライナの歴史は複雑で多様であり、とても長い歴史を持っています。

古代〔紀元前3000年~紀元500年頃〕から中世〔紀元500年頃~紀元1500年頃〕にかけて『キエフ・ルーシ』と呼ばれる国家が形成され栄えていくところからはじまります。

10世紀ぐらいにはこのキエフ(キーウ)という地域が中心となり、キリスト教が国教として広まりました。その後、モンゴルからの侵攻リトアニア・ポーランドなどの隣国の支配を受けます。

17世紀には『ウクライナ・コサック国家』が独立を宣言しましたが、またしてもロシア、ポーランド、オスマン帝国〔イスラム世界の大帝国〕の支配下となり、19世紀にはロシア帝国の支配が強まったのですが、20世紀初頭オーストリア・ハンガリー帝国ドイツ帝国ロシア帝国との戦争(第一次世界大戦)が起こります。

世界大戦後、1918年に『ウクライナ人民共和国』として独立を果たしましたが、間もなくソビエト連邦に併合されてしまいます。

1991年ソビエト連邦の崩壊とともにウクライナは独立を回復したのですが、現在ロシアとの紛争となっています。

ウクライナは地政学的にも東ヨーロッパに位置し、歴史的には東西の文化や影響が交錯する地域でした。そのため、異なる民族や文化、宗教間の緊張や対立が多く存在しています。


簡潔にまとめてしまうと以上のようになるのですが、もう少しだけ歴史を深く掘り下げて見ていきたいと思います。


キエフ・ルーシ(9世紀〜13世紀)

ウクライナの歴史は、9世紀にキエフ・ルーシ(キエフ大公国) 〔現在のウクライナ、ロシア、ベラルーシの地域に栄えた東スラヴ人の国家〕が形成されたことから始まります。その中心地はキエフ(キーウ)で首都として栄えました。スラヴ人ヴァリャーグ(ヴァイキング)〔ゲルマン人の一派〕の影響を受け、正教会〔キリスト教の主要な教派の一つ〕を受け入れました。この時期は東ヨーロッパ最大の都市の一つだったと言われています。


モンゴルの支配(13世紀〜14世紀初頭)

キエフ・ルーシ(キエフ大公国)は1240年にモンゴル帝国によって征服され〔キエフの戦い〕、その後もモンゴル帝国の支配下にありました。

モンゴル帝国とは?

13世紀初頭にチンギス・カン(チンギス・ハン)によって建国された大帝国です。その勢力はユーラシア大陸を席巻し、中国や中央アジア、中東、ロシアなど広大な領域を支配しました。軍事的な優位性と遊牧民族の武力によって帝国は急速に拡大しました。

それからの15世紀初頭までの期間は『タタールのくびき(タタールの軛)※』として知られる時代になります。

※【タタールの軛(くびき)】とは…?

軛とは、牛や馬が荷物を引くときに使うくびにかける横木のことをいうのですが、モンゴル帝国による征服の一環として反乱や逃亡を防ぐために、征服されたロシア地域の人々に対して課された重い税や義務のことを指していいます。


リトアニア大公国とポーランド・リトアニア共和国(14世紀〜17世紀初頭)

14世紀末から15世紀初頭にかけて、リトアニア大公国と結びつき、ウクライナの西部がリトアニアの支配下に入りました。

その後、ポーランドと合併し、ポーランド・リトアニア共和国が形成されました。

フメリニツキーの蜂起とコサック国家(17世紀)


17世紀中頃、コサックの指導者ボフダン・フメリニツキー(最高指導者へーチマンを務めた↑銅像の人)は、ポーランド・リトアニア共和国に対して反乱を起こし、キエフ(キーウ)を奪還しました。

これにより、一時的に独立したウクライナ・コサック国家(ヘーチマン国家)が成立しました。

コサック】とは?

武装した農民や遊牧民のことです。自由な生活のため国境地帯で活動し抵抗運動や軍事行動に参加しました。コサックは、16世紀から18世紀にかけてウクライナやロシアの地域で特に活発に活動し、自治権を持つ共同体や軍事組織としておかれ、独自の軍隊を持ち、国家や帝国の保護下で行動したり、時に独立して行動しました。

コサックダンス(ホパーク)は、ウクライナの伝統文化で、勇敢さや自由な精神を称えるために行われます。

ヘーチマン】とは?

ヘーチマン(Hetman)は、ウクライナや一部の東ヨーロッパ諸国において、特に17世紀から18世紀にかけて、コサックの軍事指導者や政治的指導者を指す称号です。ヘーチマンは、コサックの軍隊を指揮し外交交渉を行い政治的決定を下しました。権限は時と場合によって異なりましたが、一般的にはコサックの指導者として広く認識されており、ヘーチマンの地位は選挙などによって決定され、コサックの集会や議会で選出されました。


ポーランドの支配と分割(18世紀)


18世紀、ウクライナポーランドとオスマン帝国によって分割され、ウクライナの地域は異なる勢力下に入りました。

オスマン帝国】とは?

13世紀にオスマン1世によって建国され、1453年にコンスタンティノープル(東ローマ帝国の首都)を陥落し、東ローマ帝国の滅亡をもたらしました。その後、オスマン帝国は地中海、バルカン半島、中東、北アフリカなど広大な領土を支配し、16世紀にはヨーロッパの大部分を支配下におきました。イスラム教の政治、文化的な中心地として繁栄し、多民族・多宗教の帝国でした。しかし、19世紀に入ると帝国は衰退し各地で領土を失ってしまい20世紀初頭には第一次世界大戦に敗北しました。1922年にトルコ共和国が建国され、オスマン帝国は滅亡しました。



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