わずか100日間で約80万人以上の命が奪われる
1994年、アフリカの小さな国ルワンダで発生した虐殺は、20世紀の最も悲惨な出来事の一つとされています。
この出来事は、わずか100日間で約80万人以上の人々が命を奪われ、国全体に深い傷を残しました。
ルワンダ虐殺の歴史的背景
ルワンダは、長い間、フツ族とツチ族という二つの民族が共存してきました。
フツ族が大多数を占めていたのに対し、ツチ族は少数派でありながらも、長い間、社会的、経済的に優位な地位を占めていました。
この格差は、ベルギー植民地時代にさらに悪化します。
ベルギーはツチ族を特権階級として扱い、フツ族に対しては差別的な政策を採用したため、民族間の対立が深まりました。
【ベルギー植民地時代】
第一次世界大戦後、ルワンダはドイツからベルギーの委任統治下に入りました。
これは、国際連盟がベルギーにルワンダとブルンジ(当時はルアンダ=ウルンディ)の統治を委任したもので、ベルギーは1924年から1962年の独立まで両国を管理しました。
ベルギーは「間接統治」を採用し、歴史的に支配階級であったツチ族を行政の中核に据え、フツ族を下位に置く政策を強化しました。
ツチ族は土地所有者や王族に近い存在だったため、ベルギーは彼らを利用し、統治を効率的に進めようと考えたのです。
しかし、この政策によりツチ族とフツ族の間の社会的分断が深まり、長年の不平等と対立が固定化されました。
これが後にルワンダで起こった紛争や、1994年のルワンダ虐殺の一因となったのです。
フツ族による暴動が発生
〔フツ族のジュベナール・ハビャリマナ〕
1960年代に入ると、ルワンダではフツ族の反発が強まり、フツ族がツチ族に対して暴動を起こします。
そして、1961年にはルワンダが王政を廃止。共和国が宣言されて1962年に独立をします。
この独立の過程で、フツ族が政治的な権力を掌握し、多くのツチ族が迫害、ルワンダから追放され隣国に逃れることになりました。
そのような民族間の対立が深まる状況の中、1973年にフツ族のジュベナール・ハビャリマナがクーデターを起こし政権を握ります。
当時、大統領であったグレゴワール・カイバンダはフツ族からの支持を失い、国内は混乱していた為、この混乱を利用してハビャリマナは軍の支援を受け、政権を奪取したのです。
〔グレゴワール・カイバンダ〕
ルワンダ愛国戦線(RPF)が誕生
〔ルワンダ愛国戦線の最高指導者 ポール・カガメ 〕
隣国ウガンダでは、避難したツチ族がまとまりを持ち、ウガンダ軍に参加する者も多くいました。
彼らは自分たちの故郷ルワンダに戻り、ツチ族の権利を取り戻すことを目指して、1987年に「ルワンダ愛国戦線(RPF)」を結成します。
そしてRPFは、亡命したツチ族を中心とした武装勢力となり、ルワンダ政府に対抗して武力で政権奪還を目指したのです。
ルワンダ内戦が始まる
〔ポール・カガメ(左)RPFの指導者、ジュベナル・ハビャリマナ(右) ルワンダ政府軍の指導者〕
そして1990年、ついにウガンダを拠点とするRPF(ルワンダ愛国戦線)は、ツチ族の権利を取り戻すためにルワンダに侵攻し、内戦が始まりました。
勿論この内戦はルワンダ国内で大きな混乱を引き起こし、フツ族の間では「ツチ族が武力で国を奪おうとしている」という不安と恐怖が急速に広がりました。
政府は、この恐怖を利用して反ツチ族のプロパガンダ〔情報を意図的に操作して伝える宣伝活動〕を強化し、ツチ族を国の敵とみなすメッセージを広めました。
ラジオや新聞を通じて、ツチ族に対する憎悪が煽られ、フツ族の市民に対しても「ツチ族を排除すべきだ」とする過激な主張が増加しました。
1993年に和平合意(アルーシャ協定)が成立し、3年続いた内戦が一時的に終息するように見えましたが、実際には双方の緊張は続き、政治的対立が続きました。
この合意にはツチ族を含む連立政権の設立が盛り込まれていましたが、これに反対する勢力が存在し、国内の不安定さが増して緊張がさらに高まる結果となりました。
ハビャリマナ大統領暗殺とその後の虐殺
とうとう1994年4月6日、ジュベナール・ハビャリマナ大統領の乗った飛行機が撃墜され、ブルンジの大統領も含む数人が亡くなる事件が起こります。
この事件は、ルワンダにおける深刻な民族間対立を一気に悪化させ、虐殺の引き金となりました。
大統領の死を受けて、フツ族の過激派〔インテラハムウェ(ハビャリマナ政権の支持者)〕や政府軍はその混乱を利用し、武器を持って街に繰り出しました。そして、彼らはツチ族だけでなく、フツ族の中でも反政府的な立場を取る者たちをも容赦なく攻撃しました。
この攻撃は組織的に行われ、町や村での襲撃が頻発しました。
家族や友人、隣人同士が互いに殺し合う状況が生まれ、特に信頼関係があった人々が攻撃し合うという異常な事態にまで展開します。
人々は、地域社会の中での裏切りや疑念に基づいて行動し、恐怖と猜疑心が蔓延、虐殺は数週間のうちに加速して、国中で無数の残虐行為が行われました。
それでも政府はラジオやメディアを通じて反ツチ族のプロパガンダを強化し、ツチ族に対する攻撃を正当化します。その結果、ルワンダ全土で数十万人が殺され、無数の人々が家族や友人を失うことになりました。
この悲劇は、ルワンダの歴史において最も暗い時代の一つとして記憶されています。
虐殺が進行する中、国際社会は無関心を示し続けた…
虐殺が進行する中、国際社会は無関心を示し続けました。
国連平和維持部隊はルワンダに派遣されていましたが、十分な支援がなく、虐殺を食い止めることはできませんでした。
国連のルワンダ派遣団(UNAMIR)の司令官であった、ロメオ・ダレールは状況を改善するための援助を求めましたが、その呼びかけは無視され、ルワンダの人々にさらなる絶望をもたらしました。
そして虐殺の最中、多くの国がルワンダから逃げる難民を受け入れることを拒否し、ルワンダの人々の助けを求める声には耳を貸しませんでした。
それによって虐殺はますます広がり、多くの人々が命を失うことになりました。
虐殺の実態
虐殺は1994年4月から7月の約100日間にわたり続きました。
この期間、フツ族の民兵組織「インテラハムウェ(ハビャリマナ政権の支持者)」は組織的にツチ族を襲い、村々で大規模な殺戮を行いました。多くの人々が自宅から引きずり出され、残酷な方法で殺され、性的暴力も頻繁に発生しました。
国際社会はこの虐殺が起こる前に警告を受けていましたが、適切な対策を講じることができず、国連平和維持軍も効果的に介入することができませんでした。
この無関心と無力さが、悲劇的な状況をさらに悪化させました。
虐殺の終息とその後
最終的に1994年7月、RPF(ルワンダ愛国戦線)が勝利し、ハビャリマナ政権が崩壊しましたが、この時点で80万人以上の命が虐殺によって奪われました。
RPFが政権を握った後も国内は混乱が続き、数十万人のフツ族が隣国に逃れる事態となり、これによりルワンダの歴史には敵意と悲しみが深く刻まれることとなります。
しかし、その後ルワンダは再建の道を歩み、国際社会の支援を受けながら和平プロセスを進め、国民和解を目指しました。
政府は「ジェノサイドの否認」(発生した虐殺や大量殺人の事実を否定すること)を厳しく罰し、教育を通じて新しい世代に歴史を学ぶことに力を入れています。
このように、ルワンダは過去の悲劇を教訓にし、再生を目指して取り組んでいるのです。