人類史上最も致命的な化学事故
1984年12月3日、インドの中央部に位置する都市ボパールで、世界史に残る恐ろしい化学事故が発生しました。
この事故は「ボパール化学工場事故」として知られ、何万人もの命を奪い、今もなお被害者やその家族に深い傷跡を残しています。
ボパール化学工場の背景
〔写真はイメージです〕
ボパールは、インドの中央部に位置するマディヤ・プラデーシュ州の州都で人口が密集している都市の一つです。
特に1980年代当時、工業化が進んでいましたが、他の大都市と比べるとボパールはまだ急成長中の都市でした。
その中でも大きな存在感を持っていたのが、アメリカの企業「ユニオンカーバイド社」が所有する化学工場です。
この工場では、農業に使用される殺虫剤「セビン」を製造していました。
セビンを作るためには、非常に危険な化学物質「イソシアン酸メチル(MIC)」が必要なのですが、これが事故の発端となります。
事故当時、この工場の運営は厳しい経済状況に直面しており、コスト削減のために安全対策が後回しにされていたのです。
悲劇の夜
1984年12月2日から3日にかけての夜、工場内で致命的なミスが発生しました。
メンテナンスの不備や安全対策の欠如によって、貯蔵タンクの中で大量の水がイソシアン酸メチル(MIC)に混入してしまい、その結果、爆発的な化学反応が起こります。
それにより、約40トンのMICの有毒ガスが工場から漏れ出し、近隣の住宅地に広がっていきました。
そんなガスが広がる中、多くの住民は眠りについており、有毒ガスにさらされた人たちは、呼吸困難、目の灼けるような痛み、めまいや意識混濁、嘔吐などの症状に襲われました。
そして被害は瞬く間に拡大し、当時の報道では、直後に約3,000人が死亡したと伝えられています。
しかし、その後も影響は収まることなく続き、数日以内にさらに多くの命が失われました。
最終的な犠牲者数は、公式には約15,000人とされていますが、実際の数は20,000人以上に上るともいわれます。
事故によって命を落としただけでなく、50万人以上もの人々が肺疾患、視覚障害、皮膚疾患など、長期的な健康被害に苦しむこととなり、ボパール周辺地域の生活環境は一変しました。
さらに、ガスが影響を与えたのは人間だけではなく、地域の動物や植物も被害を受け、環境全体が大きく破壊されました。
事故後の対応とその影響
事故後、ユニオンカーバイド社は事故の責任を一部認め、1989年にはインド政府との間で470億ルピー(約4億7000万ドル)を被害者に支払うという和解が成立します。
しかし、この金額は多くの被害者にとっては十分ではなく、多くの遺族や被害者団体が補償の再交渉を求め続けました。
さらに、事故当時の最高経営責任者(CEO)であったウォーレン・アンダーソンが逮捕から逃れるためにインドを離れたことから、住民の間では事故後の対応への不満と失望が一層高まる結果となりました。
「業務上過失致死の罪」を逃れたウォーレン・アンダーソン
最高経営責任者(CEO)のウォーレン・アンダーソンは、ボパール事故後にインドで一時的に逮捕されましたが、保釈金を支払って釈放されました。インドの司法制度に基づき、保釈が可能だったためです。
保釈後、彼はインド国内に留まるという条件があったものの、すぐにアメリカに帰国し、その後インドには戻りませんでした。
インド政府はアンダーソンの引き渡しをアメリカに求めましたが、アメリカ政府もそれに応じませんでした。
このことが、事故後の責任逃れとして大きな批判を招きました。
最後に
ボパール化学工場事故は、企業が経済的利益を優先し、安全対策を軽視した結果として数万人の命が奪われる大惨事に発展しました。
そして現在でも、事故現場には未処理の化学廃棄物が残され、周辺の環境汚染が続いています。
この問題への対応は不十分で、多くの被害者やその家族にとって事故の影響は現在も続いており、終わりの見えない悲劇となっています。