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【世界の戦争 雑学⑥】日露戦争—日本とロシアの激突!その結末とは?(1904)

【 世界の『戦争』雑学 】

2月の出来事:日露戦争—日本とロシアの激突!

日露戦争

〔開戦時の戦力比較(露・日:歩兵66万対13万、騎兵13万対1万、砲撃支援部隊16万対1万5千、工兵と後方支援部隊4万4千対1万5千、予備部隊400万対46万)〕



1904年2月、日本はロシア帝国に対して宣戦を布告し、日露戦争が始まりました。



近代戦争として世界の注目を集めたこの戦いは、わずか40年ほど前まで鎖国(さこく)〔外国との交流を厳しく制限し、国を閉ざすこと〕をしていた日本が、ヨーロッパの大国ロシアと戦うという驚くべき出来事でした。



では、なぜ日本はロシアと戦うことになったのでしょうか? そして、この戦争の結果は日本に何をもたらしたのでしょうか…


なぜ日本とロシアは戦うことになったのか?




そもそも、どうして日本とロシアが戦争をすることになったのでしょうか…?



その背景には「朝鮮半島と満州をめぐる対立」がありました。


当時、朝鮮半島は日本にとって国防の最前線でした。朝鮮が他国の支配下に入ると、日本の安全が脅かされるため、何としても影響力を保ちたいと考えていました。


一方、ロシアも南へ勢力を広げようとしており、朝鮮や満州(現在の中国東北部)を狙っていました。


日清戦争(1894~1895年)の後、日本は朝鮮半島での影響力を強めてはいましたが、ロシアがそれを妨害しようとし、清(中国)との交渉で満州に軍を駐留させ、さらに朝鮮にも干渉し始めたのです。

日清戦争(にっしんせんそう)は、日本と清(中国)が朝鮮半島の支配をめぐって戦った戦争で、日本の勝利により清の影響力が低下し、日本が台湾を獲得して国際的に台頭する契機となった戦争。



「このままでは日本の国益が脅かされる!」と判断した日本政府は、交渉を試みるも決裂。そして 1904年2月、ついに日本はロシアに対して開戦を決意したのです。



開戦!日本の奇襲から始まった戦争



日露戦争は日本軍の奇襲から始まりました。


日本海軍は開戦前日の2月8日夜、ロシアの旅順港(現在の中国・大連)に停泊していたロシア艦隊へ魚雷攻撃を仕掛けます。これによりロシア側は大きなダメージを受け、日本は開戦早々に有利な状況を作り出しました。


しかし、ロシアは圧倒的な大国。これで終わるわけがありません。その後、戦争は陸と海の両方で激しい戦いが繰り広げられました。


陸の戦い—旅順要塞攻略と奉天会戦

〔203高地〕


日本陸軍はロシアが占拠する旅順要塞(りょじゅんようさい)を攻めましたが、ここは難攻不落の強固な要塞でした。日本軍は苦戦を強いられながらも、約半年かけて203高地を占領。この戦いでの勝利が、日本にとって大きな転機となります。




そして、1905年3月奉天会戦(ほうてんかいせん)〔現在の中国・瀋陽〕では、日本軍とロシア軍が総力を挙げて戦いました。そして、この戦いに勝利したことで、日本はロシアの主力を大きく消耗させることに成功したのです。


海の戦い—歴史に残る「日本海海戦」

〔5月27日早朝、バルチック艦隊との決戦に出撃する連合艦隊〕



戦争の決定打となったのが、1905年5月27日~28日に行われた「日本海海戦」です。



ロシアはバルチック艦隊という大艦隊をバルト海から地球を半周させ日本へ送り込みました。しかし、日本の連合艦隊司令長官東郷平八郎は、この艦隊の進路を予測し、対馬海峡で待ち構えました。



そして、東郷平八郎の名指揮のもと、日本艦隊は「東郷ターン」と呼ばれる巧みな戦術を駆使し、ロシア艦隊を撃破。ロシアの戦艦8隻を撃沈し、日本は世界を驚かせる大勝利を収めました。


この勝利によって、日本は戦争の主導権を握り、ロシアは戦意を喪失したのです。


戦争の終結—ポーツマス条約




ロシアにとって、この戦争は想像以上に大きな損害をもたらしました。国内では戦争継続に反対する動きが強まり、ついにロシア政府は講和交渉に応じます。


戦争に敗れたロシアは、アメリカの仲介のもと、1905年9月に「ポーツマス条約」を結びます。



この条約で、日本は朝鮮半島の支配権を認められ、ロシアが満洲から撤退することになりました。また、日本はロシアから南樺太(現在のサハリン南部)を獲得するのです。



日本は、この戦争を通じて「アジアで初めて欧米列強に勝った国」として世界から注目されるようになりました。



日露戦争がもたらしたもの


日露戦争は、日本にとって「近代国家としての試練の時期」でした。そして、この勝利が日本の自信を高め、さらなる発展につながるきっかけとなったのです。

しかし、一方で戦争による負担は非常に大きく、国民の生活は苦しくなり、不満も高まりました。また、日本の軍事的成功は、のちの太平洋戦争へとつながる要因のひとつにもなります。


日比谷焼打ち事件


1905年、ポーツマス条約の内容に不満を持った日本の民衆が東京の日比谷公園で抗議集会を開き、暴徒化して官庁や新聞社、交番などを襲撃・放火した事件です。


日露戦争での勝利にもかかわらず、賠償金を得られなかったことに国民の怒りが爆発し、日本各地でも騒乱が発生しました。


この事件をきっかけに政府は戒厳令(かいげんれい)〔国家の緊急事態時に軍が統治を行うために発令される法令〕を敷き、以後、言論や集会の取り締まりが強化されました。

最後に

〔点呼をとる日本軍一師団〕


日露戦争は、日本が国際的な地位を高め、その実力を示した重要な転換点でした。



しかし、その勝利の裏には多大な犠牲や経済的負担があったのです。そして、日本はさらなる軍事拡張へと進んでいきます。この戦争は単に日本とロシアの戦いではなく、20世紀の国際関係にも大きな影響を与えました。


歴史は「勝てば終わり」ではなく、その後の展開こそが重要なのかもしれません。もしこの戦争がなかったら、日本はどのような国になっていたのでしょうか…?



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