日本の未解決事件『グリコ・森永事件』『三億円事件』

『グリコ・森永事件』日本の謎の未解決事件
先ずは、日本の歴史に残る未解決事件、「グリコ・森永事件」からお話ししていこうと思います。
この事件は、1980年代に日本中を震撼させた一連の誘拐や恐喝事件で、現在でもその真相は解明されていません。
事件の始まり: グリコ社長誘拐

1984年3月、江崎グリコの社長である江崎勝久氏が自宅から何者かに誘拐されました。
犯人は江崎氏の母親を脅して家の鍵を手に入れ、家に侵入します。そして入浴中だった江崎氏は銃を突きつけられ、そのまま車のトランクに詰め込まれて連れ去られました。
犯人は身代金10億円と金塊100キロを要求しましたが、幸いなことに江崎社長は3日後に自力で逃げ出し、無事保護されます。
脅迫と恐喝: 食品業界の大混乱

しかし、事件はこれで終わりではありませんでした。
犯人は「かい人21面相」と名乗り、グリコだけでなく他の食品会社〔森永製菓、ハウス食品、不二家、丸大食品など〕を標的にし始めます。
そして、企業に対して金銭を要求し、要求が満たされない場合には商品に毒を入れると脅しました。この脅迫により、企業は多くの製品を回収することになり消費者の信頼を失う事態に陥りました。
謎の手紙と挑発的な行動

事件の最中、その「かい人21面相」と名乗る犯人グループは、警察やマスコミに多くの手紙を送りつけました。これらの手紙は挑発的でありながら、ユーモアを交えて警察を嘲笑う内容が含まれていました。
その手紙の中には、商品に毒物を混入したと主張したものもあり、実際に回収されたものから毒物が検出されることもありました。
手紙は独特のひらがなやカタカナ交じりの文体で書かれており、それにより、犯人グループの正体や動機を特定する手がかりが一層難しくなったのです。
事件の終焉

1984年11月、ようやく犯人と思われる不審車両が現場近くでパトカーに発見されましたが、残念ながら取り逃がしてしまいます。この出来事は警察の信頼を大きく損ない、世間からも強い批判が寄せられる事態となりました。
そして事態は深刻化し、捜査を指揮していた県警本部長が「すべての責任は自分にある」と遺書を残し、焼身自殺を図るという衝撃的な展開に至ります。
その後、犯人側から「くいもんの 会社 いびるの もお やめや」と書かれた、事件の終結をほのめかすメッセージが送られ、それ以降犯行は沈静化しました。
結局、警察の捜査は行き詰まりを見せ、グリコ・森永事件は未解決のまま時効を迎えます。現在もなお、多くの謎を残したまま真相は明らかになっていません。
事件の全容解明を願う声は根強くありますが、今のところ解決の見通しは立っていないのが現状です。
『三億円事件』日本最大のミステリー未解決事件

〔三億円事件の事件現場〕
この三億円事件は、まるで映画のような大胆な手口で行われたもので、多くの人々の記憶に残っている事件です。そして日本の犯罪史において特筆すべき未解決事件となっています。
事件の概要

日付: 1968年12月10日
場所: 東京都府中市
被害額: 3億円(現在の価値で約20億円以上)
事件当日、東京都府中市にある東芝府中工場の従業員のボーナスを運ぶ現金輸送車が狙われました。
この車には、東京芝信用金庫からの約3億円が積まれ、通常のルートを通って工場に向かっていたのですが、途中で白バイに乗った警察官に停止を求められます。
スピード違反してしまったのかと車を停めると、輸送中のドライバーに「車両にダイナマイトが仕掛けられている可能性がある。」と告げてきました。
その警察官のふりをした男は、現金輸送中のドライバーとガードマンに車から降りるよう指示し、車の下を点検しているふりをして、発煙筒を焚いて、「ダイナマイトが爆発するぞ!」と叫びます。

その白煙により完全に信じ込んでしまったドライバーとガードマンは車から逃げ出したのですが、その間に、その白バイ警官は現金輸送車を移動するかのように乗ったまま姿を消しました。
ドライバーたちはそのとき「勇敢な警官だ。」と感心していたという。
犯人は非常に巧妙な手口を使い、犯行はわずか数分だったと言われます。
捜査と証拠

警察は事件直後から大規模な捜査を開始し、延べ17万人もの警察官が動員されました。
しかし、決定的な証拠や目撃情報はなく、犯人像はつかめませんでした。そして捜査は長期間にわたり、10万人以上が容疑者として浮上しましたが、誰一人として逮捕には至りませんでした。
現場に残された遺留品の中には、偽装した白バイ、発煙筒、コートなど120点以上が発見されましたが、これらの遺留品は犯人の特定には結びつかなかったのです。
事件の影響とその後
三億円事件は、その大胆さと未解決事件ということから、多くの映画やドラマ、書籍で取り上げられています。そして、この事件は日本の現金輸送の方法やセキュリティ対策にも大きな影響を与えました。
事件発生から7年後の1975年12月10日に公訴時効が成立したため、法律上は犯人が特定されても刑事罰を科すことはできなくなりましたが、この事件は今なお語り継がれています。
