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【世界のゾッとする戦争の『雑学』②】ベトナム戦争と冷戦時代、地雷問題

【 世界の『戦争』雑学 】

内戦と紛争

ベトナム戦争と冷戦時代



ベトナム戦争は、1955年から1975年まで続いた南北ベトナムの対立に端を発した武力衝突です。


冷戦時代の背景において、アメリカは共産主義の北ベトナムに対抗するために南ベトナムを支援し、対立が激化しました。


アメリカは大規模な軍事介入を行いましたが、戦争は長期にわたり泥沼化。


1973年アメリカはパリでベトナム和平協定(正式名称:ベトナムにおける戦争終結と平和回復に関する協定)を結び、ベトナムから撤退しました。


そして、その後1975年に北ベトナムがサイゴンを陥落させ、ベトナムは統一されました。


この戦争は多くの犠牲者を出し、国内外で大規模な反戦運動を引き起こすとともに、アメリカの外交政策にも大きな影響を与えました。

【冷戦とは】

冷戦とは1947年~1991年までの期間にわたる、アメリカとソビエト連邦の対立を指します。

アメリカの資本主義〔市場経済と個人の所有権に基づく経済体制〕とソビエトの共産主義〔生産手段の共有と平等な資源分配を追求する社会体制〕の経済体制の違いから生まれ、核兵器の競争軍備拡張が進みました。

ベルリンの壁〔東西ドイツを分ける防壁。西側は資本主義、東側は共産主義〕やキューバ危機〔核戦争の危機に発展した、アメリカとソ連がキューバにおいて核ミサイルの配備を巡り対立〕などの問題が続出し、この冷戦時代は緊張と対立の時代となりました。

直接の軍事衝突は避けられものの代わりにさまざまな地域で『代理戦争』が展開され、最終的にはソ連の崩壊で終結します。

〔ベルリンの壁〕

ベトナム戦争が起こった要因と背景


ベトナム戦争が起こった要因は複雑で、植民地支配や冷戦時代などの国際政治が複合的に絡み合っています。

フランスは19世紀半ばベトナムを植民地化しており、第二次世界大戦後にフランスが再び植民地支配を試みることで対立が激化していきます。

フランスの植民地支配に対するベトナム独立運動が背景にあるのですが、1954年のディエンビエンフーの戦い〔フランスとベトミン(北ベトナムの共産主義者)の争い〕でフランスが敗北し、ジュネーヴ協定で北緯17度線を境に南北ベトナムに分割されました。


そして、南ベトナムで反共産主義の政権が樹立されたことにより、北ベトナムの指導者ホー・チ・ミンは再統一を目指して南進します。


アメリカは南ベトナムを支援し、共産主義の拡大を阻止するために軍事介入したことにより、ベトコン(南ベトナムの共産主義者)と北ベトナム軍ゲリラ戦術〔小規模戦術で地元住民に紛れ込み奇襲や速やかな撤退を活用して行われる戦闘形態〕を用いて戦い続けることになります。



これらのことが原因で冷戦の代理戦争として激化し、隣国のラオスカンボジアも巻き込み、結局南北ベトナム統一されるまで20年以上にわたる長期戦争に発展しました。


ベトナム戦争は、多くの犠牲者と深刻な影響をもたらした戦争であり、国際政治と冷戦史において重要な出来事の一つとなります。

ベトナム戦争での残虐な行為


ベトナム戦争は、その長期化と激しい戦闘により、アメリカ軍のさまざまな残虐行為や人道に対する違反行為が発生しました。

化学兵器の使用

アメリカ軍は枯れ葉剤(エージェント・オレンジ)〔除草剤の一種で発がん性や先天異常のリスクがある〕などの化学兵器を使用し、ベトナムのジャングル地帯で敵の隠れ家や作戦地域を明らかにするために散布されました。これにより、非戦闘員を含む多くの人々が健康被害を受けました。


マイライ村で非武装の民間人を殺害

1968年、アメリカ軍が南ベトナムの村のマイライで非武装の民間人を殺害した事件が発覚しました。500人近くの人が虐殺されたのですが、その中には抵抗もできない女性や多くの子供が含まれていました。

戦闘地域ではこのように無差別爆撃や砲撃、地雷の設置などにより多くの一般市民が巻き込まれ犠牲になり、村や都市が破壊されていきました。


拉致そして捕虜の虐待と拷問

拉致などにより捕虜が取られ、虐待、拷問が行われたとされています。これにより捕虜の人権が侵害されたとし国際問題となりました。


放置されたままの爆弾や地雷

戦争終結後も、未だにベトナムや隣国のカンボジアラオスには放置された地雷や爆弾が多く残っており、これらが原因で多くの人々、特に小さい子供たちが被害を受けています。



これらはベトナム戦争中の一部の残虐行為であり、戦争がもたらす非常に深刻な問題の一部に過ぎません。ベトナム戦争は多くの犠牲者を出し、その傷跡は今もなお残っています。

カンボジアの内戦と地雷問題


カンボジアには、かつての戦争や紛争の影響で多くの地雷が埋まっています。


先ほどお話したベトナム戦争からはじまり、カンボジア内戦、そしてクメール・ルージュ政権時代に、様々な武装勢力が地雷を使いました。


これらが原因で、国内にはまだ見つかっていない地雷が多く残っており、地雷の撤去作業は進行中ですが、人々の生活の安全を脅かしています。


カンボジアはベトナム戦争(1955年 – 1975年)において、アメリカ合衆国と北ベトナムの戦闘の舞台ともなったのですが、そのとき多くの武器がカンボジアに持ち込まれ戦闘が行われたことで、地雷が広範囲に設置されました。その地雷の数は推定500万個とも言われています。


クメール・ルージュ政権(1975年 – 1979年)が台頭すると、その指導者であるポル・ポトは国内で大規模な強制労働収容所を設置しました。


それにより多くの人々が強制的に働かされ、地雷を設置する作業に従事させられました。

【ポル・ポト】とは?

ポル・ポトはカンボジアの政治家で、クメール・ルージュ党の指導者でした。

1975年にクメール・ルージュが政権を握り、ポル・ポトは首相として極端な共産主義政策を実施。都市住民を農村に強制移住させ、知識人や都市居住者を残忍なやり方で弾圧そして殺害しました。

1979年にベトナムが介入したことでクメール・ルージュ政権は崩壊したのですが、ポル・ポトは隠れて生活し1998年に死亡します。

この極端な政策により数百万人が犠牲になったと言われています。

【クメール・ルージュ党】とは?

クメール・ルージュ党は、カンボジアで1975年から1979年にかけて政権を握った極左の共産主義政党になります。

その指導者ポル・ポトは、農村出身者で構成された共産主義の理念に基づき、農村共同体を形成することを目指しました。

ポル・ポト政権は都市の過度な近代化を拒否し、都市部の住民を農村地帯に強制移住させました。これにより多くの人々が飢餓や過酷な労働によって命を落とします

また、知識人、都市住民、反革命的と見なされる人々を次々に逮捕強制的に収容し、キリング・フィールド〔カンボジアで設置された大量虐殺施設や処刑場〕と呼ばれる場所により拷問、処刑しました。

トゥール・スレン刑務所(S21)〔もともとは学校だった場所を刑務所にした〕


1980年代に入り、ベトナムは反クメール・ルージュ勢力と連携し軍事介入します。それによりクメール・ルージュは失脚しカンボジア内戦が終結しました。

しかし、クメール・ルージュ政権が崩壊し、ベトナム戦争が終結したが、多くの地域で設置されたままの地雷や爆発物が残されることとなります。


この戦争の余波である地雷の被害者は、主に農民や子供たちなのですが、地雷は農地や村落の周辺に存在し日常生活において深刻な脅威となっています。


そして住民たちはこの地雷の存在により農業や通学が制約され生計を立てることが難しくもなっています。



国際的な援助やNGO団体〔非営利組織。政府に属さずに独立して運営〕の協力により、カンボジアでは地雷除去活動が進められていますが、地雷の除去には、技術的な課題や財政的な問題などもあり、地雷の完全な除去はとても困難で、依然として未処理の地雷が多く存在しているのも事実です。

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