神風特別攻撃隊
第二次世界大戦の末期、日本が戦争の終息を迎えつつあった頃、特攻隊という自殺的攻撃部隊が登場しました。
その名も『 神風特攻隊 』〔正式名称:神風特別攻撃隊〕
この部隊は、戦局を打開するために、敵艦船などに対して自らの命を犠牲にして攻撃を行いました。
元々、神風は「しんぷう」と呼ばれていたが、ニュース等で「かみかぜ」と読まれたことにより、その読み方が定着します。
『神風(かみかぜ)』とは?
神風特攻隊は、1944年から1945年にかけて日本の海軍(大日本帝国海軍)によって編成されたのですが、この「神風(かみかぜ)」という言葉は、元寇(げんこう)〔13世紀後半、元が日本を侵略しようとした戦争〕に由来します。
当時、元(モンゴル帝国)は日本を二度にわたって侵略しようとしたのですが、その両方とも、台風によって元軍の艦隊が壊滅的な打撃を受けました。
この台風は「神の風」とされて、日本を守ったと信じられました。これが「神風」の語源となります。
日本の歴史において「神風」は、国難に際して神が守護する象徴とされていたのです。
そのため、かつて神風が日本を救ったように、特攻隊の犠牲が日本を救う奇跡を起こすことを祈る意味が込められていたのです。
神風特攻隊の背景
神風特攻隊の結成には、いくつかの背景があります。
戦争の後半、日本は連合国との戦局が厳しくなり、特に太平洋戦線での状況は絶望的でした。
日本軍は、戦力や物資の不足、そして技術的な劣勢に直面し、通常の戦術ではもはや勝利が見込めないと考えました。このような状況下で従来の戦術ではなく、極限的な戦術が求められるようになります。
その一環として、日本軍は「玉砕」や「特攻」といった戦術を採用しました。
「玉砕」は、全滅覚悟で敵に対抗するということを意味し、「特攻」は、自らの命を犠牲にして敵に打撃を与えることを目的とした攻撃です。
結果として、自らの命を賭けて敵艦船に突っ込む特攻作戦が考案されたのです。
神風特攻隊の考案者
特攻作戦の考案者として最も広く認識されているのが、大西瀧治郎(おおにし たきじろう)海軍中将です。
フィリピン戦線での日本軍の窮状を打開するため、特攻という究極の戦術を提案。大西中将の指導のもとで特攻隊が編成されたと言われます。
そして戦局が悪化する中で、従来の戦術が効果を発揮しないと感じた日本軍の指導層は、特攻作戦を採用することを決断。多くの若い命を犠牲にする悲劇的な結果をもたらしました。
戦後、日本の降伏と戦争の終結により、大西瀧治郎は戦争責任を問われることになるのですが、特攻作戦の犠牲とその結果に対する責任を感じ、官舎にて割腹自決します。
この行動は、戦争の悲劇とその結果に対する深い後悔を示すものとされています。
神風特攻隊の任務と影響
神風特攻隊の主な攻撃手段は、重さ約250㎏の爆弾と、必要最低限の燃料を搭載した航空機を敵艦船に自ら突っ込ませ、敵に最大限の損害を与えることでした。
この片道しかない攻撃により、出撃したほとんどのパイロットが命を落としました。
記録によると、特攻隊での攻撃の成功率は全ての期間を合わせ、およそ10%程度だったといわれます。ほとんどは敵艦隊などに攻撃され墜落したとされ、犠牲者は約4000人にも上ります。
神風特攻隊の影響
神風特攻隊の活動は、日本国内外で大きな影響を与えました。
日本国内では、特攻隊員たちは「英雄」として称賛されましたが、その一方で多くの若者が犠牲となり、戦争の悲劇が一層強調されました。
特攻作戦の効果については議論がありますが、特にアメリカの艦船に対して一定の損害を与えました。
しかし、特攻作戦は戦争の終結を引き延ばす結果となり、最終的には戦局を決定的に変えることはできませんでした。
最後に
戦時中には、赤紙(召集令状)を受け取ったり、出撃命令が出たりする際に「おめでとうございます。」と言われ、それに対し「ありがとうございます。」と言葉を交わすことが一般的だったと言われます。
それは、戦争に参加することが名誉ある任務だとされていた為です。
このような表現には、当時の日本社会における、戦争に対する価値観や文化を反映しており、個人の犠牲が国全体のための貢献と見なされていた時代の象徴ともいえます。
しかし、実際には多くの兵士が非常に厳しい状況に直面しており、こうした言葉が必ずしも彼らの本当の気持ちを表していたわけではありません。
現在でも世界各地では紛争〔武力紛争が50以上あると言われる〕が続いていますが、過去の教訓を踏まえ、対話や国際的な協力を重視することが求められています。