ジョン・レノン暗殺(1980)
元ビートルズ「ジョン・レノン」が倒れた日

〔事件現場ダコタ・ハウスの玄関 レノンがロビーに倒れこむ前に上った階段が見える〕
ジョン・レノンの殺害事件は、世界中の音楽ファンにとてつもない衝撃を与えました。
1980年12月8日、ニューヨークのダコタ・ハウス前で、若い男マーク・チャップマンに銃で撃たれ命を奪われたのです。
この出来事は、音楽史にとどまらず、社会や政治にも計り知れない影響を与えることになりました。
事件の背景

ジョン・レノンは、ビートルズのメンバーとして世界的な名声を得た後、ソロアーティストとしても成功を収めました。
彼の音楽は社会問題や戦争への反対を強く訴えかけるもので、『イマジン』や『ハッピー・クリスマス(戦争は終わった)』といった楽曲は、多くの人々に影響を与えました。
しかし、その平和活動や政治的な発言は、当時のアメリカ政府〔特にニクソン政権〕から警戒されるようになります。
ベトナム戦争〔冷戦下でアメリカが介入し、南北ベトナムが激しく戦った戦争〕への反対を公然と表明し、若者の反戦運動を支持する発言も多かったため、FBIの監視対象となっていたのです。

〔当時、機密とされていた手紙:ジョン・レノンに対するFBIの監視〕
そして、ジョン・レノンは国民に対して大きな影響力を持っていたため、アメリカの保守派〔伝統的な価値観を重視し、政府の介入を最小限に抑える立場の人々〕から『政治的に危険な存在』と見なされることもありました。
1972年の大統領選挙の前後には、彼を国外追放しようとする動きまであったほどです。

〔このグリーンカードにより、ジョン・レノンは米国に住み働くことができた〕
犯人マーク・チャップマンの動機

〔マーク・チャップマン〕
事件の犯人であるマーク・チャップマンは、当時25歳で、すでに精神的に不安定な状態にあったとされています。
彼はジョン・レノンを音楽家としてではなく、『偽善者』と見なし、特に『イマジン』の歌詞とレノン自身の生活との矛盾に強い反感を抱いていました。
もともと熱狂的なファンだったチャップマンの思いは次第に歪み、やがてJ.D.サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』の影響を受け、「偽善者を排除することで自分の存在を証明できる」と信じるようになっていったのです。

『ライ麦畑でつかまえて』は、思春期の孤独や混乱を抱える少年(ホールデン・コールフィールド)の視点で描かれた、成長と社会への反抗をテーマにした小説です。
また、「歴史に名を刻みたい」「注目される存在になりたい」という自己顕示欲も、チャップマンの犯行の大きな動機となったとも言われます。
ジョン・レノンを「ヒーロー」として敬愛していたはずのチャップマンでしたが、その感情は憎しみに変わり、最終的に暗殺という決断へと至ったのです。
そして、衝撃の瞬間

1980年12月8日、ジョン・レノンは妻のオノ・ヨーコとともに自宅のダコタ・ハウスを出入りする際、ファンにサインをしていました。その中には、後に悲劇を引き起こすことになるマーク・チャップマンの姿もありました。
夕方、チャップマンはレノンのアルバム『ダブル・ファンタジー』にサインをもらっていましたが、この穏やかなひとときは、やがて訪れる悲劇の前触れとなっていたのです。
数時間後、レノンが自宅へ戻ると、待ち伏せしていたチャップマンが突如として銃を取り出し、5発の弾丸を発射しました。そのうちの4発がレノンの体に命中し、彼は倒れ込みました。
すぐにニューヨークのルーズベルト病院へ搬送されましたが既に手遅れでした。そして、午後11時15分、ジョン・レノンの命は絶たれたのです。
この悲劇的な出来事は世界中に衝撃を与え、多くの人々が言葉を失い、音楽界にとって計り知れない損失を感じることになったのです。
ジョン・レノンの死

ジョン・レノンの死は、音楽業界だけでなく、社会全体にも深い影響を与えました。
レノンの死後、数多くの追悼行事やイベントが行われ、彼の音楽やメッセージはさらに多くの人々に広がります。また、レノンが生前に訴えていた平和や愛のメッセージは、死後ますます重要視されるようになったのです。

そして、数十年が経過した今でもその影響力を衰えることなく、今もなお多くの人々に影響を与え続けています。

〔レノン・ウォール〕
