ロシア帝国の支配(18世紀末〜19世紀初頭)
ロシア帝国は、ウクライナの一部を併合。1800年代にはウクライナのほとんどがロシア帝国の支配下に入ります。
ロシア帝国とは?

ロシア帝国は、1721年にピョートル大帝によって建国され、ヨーロッパからアジア、さらには北アメリカにまで広がる、当時世界最大級の領土を誇る国家となりました。
この帝国は、絶対主義体制のもとで多様な民族や宗教を包摂しながら、領土の拡張を積極的に進めました。
しかし、19世紀後半に入ると社会的不満や政治的緊張が高まり、農奴解放や産業化が進む一方で、体制への不信も強まります。
そして第一次世界大戦への参戦が混乱に拍車をかけ、1917年のロシア革命を契機に、ロマノフ家による帝政は終焉を迎えます。
この革命を経て、ロシア帝国は崩壊し、新たにソビエト連邦が誕生しました。
ウクライナ人民共和国とソ連の樹立(20世紀初頭)

ロシア革命後、1917年にウクライナ人民共和国が独立を宣言。しかし、内戦やポーランド、ロシア、ソビエト連邦などとの対立があり、最終的にソビエト連邦に併合されます。
ロシア革命で何が起こったのか…?

ロシア革命は、1917年にロシアで発生した歴史的な事件となるのですが、帝政への不満が爆発した結果起こりました。
政治的・経済的な行き詰まりに加え、第一次世界大戦による疲弊が、国民の怒りを一層強めたのです。
この革命は、主に二つの段階に分けられます。最初は「2月革命」、続いて「10月革命」です。
まず1917年2月に始まった2月革命では、食料不足や戦争への不満、政治的抑圧に耐えかねた労働者や兵士、農民たちが蜂起し、ロマノフ王朝を率いたニコライ2世を退位に追い込みました。これにより帝政は崩壊し、臨時政府が発足します。
しかし、この新たな政権も多くの困難に直面しました。戦争の継続、農地改革の停滞、労働者の待遇改善など、国民の期待に応えることができず、次第に支持を失っていきます。
そうした中、共産主義勢力であるボリシェヴィキの指導者、ウラジーミル・レーニンが中心となり、1917年10月に「10月革命」を敢行。

〔ウラジーミル・レーニン〕
現在のサンクトペテルブルクにあたるペトログラードで武力による革命が起き、臨時政府は崩壊。これにより、ボリシェヴィキ(ソビエト共産党の前身)が実権を握りました。
この一連の革命を経て、ロシアは帝政から社会主義国家へと大きく舵を切り、新たにソビエト連邦が誕生しました。この体制の変化は、ロシア国内にとどまらず、世界史に深い影響を及ぼすことになります。
ホロドモールと第二次世界大戦(1930年代〜1945年)

スターリン時代の1930年代初頭、ウクライナではホロドモールと呼ばれる人為的な飢饉が発生し、数百万人が死亡します。
第二次世界大戦ではウクライナは戦場となり、多くの被害を受けました。
スターリン時代とは?

スターリン時代とは、1920年代から1950年代初頭にかけてのソビエト連邦を特徴づける時代であり、ヨシフ・スターリンが国家の最高権力者として君臨した時期を指します。
この時代には、厳しい政治的抑圧と強権的な統治、そして国家主導による経済の集中的な管理が顕著に見られました。
スターリンは、個人崇拝と強力な統制を背景に、ソビエト社会を急速に工業化・農業集団化させ、国家を強化しようとしましたが、その過程で数百万人の犠牲者を出す大粛清や強制労働収容所(グラーグ)の設立など、多くの人権侵害が行われました。
ホロドモールとは?

1932年から1933年にかけてウクライナで発生した大規模な人為的な飢饉です。この言葉はウクライナ語で「飢餓(きが)」を意味します。
ホロドモールは、ソビエト連邦の指導者であるヨシフ・スターリンの政策により、ウクライナの農村地域において、農産物を強制的に徴収することを目的に進められた集団農場化と食糧没収政策によって引き起こされました。

ウクライナの農民は収奪され、食糧を持てない状態にまで追い込まれ、更にはウクライナに対する食糧の出荷制限や食糧の移動を禁止する政策も実施されます。
それにより数百万人(500万人ともいわれる)のウクライナ人が飢えに苦しみ死亡しました。この飢饉は、政府による意図的なものであり、農村部の抵抗を弱めるために利用されました。
この「ホロドモール(飢餓による大量死)」は、ウクライナ国民にとても深い傷跡を残した出来事であり、現代のウクライナでは、この悲劇を忘れないために、ホロドモールの犠牲者を追悼する記念日が設けられています。
ソビエト時代の終焉(1991年)

ソビエト連邦の崩壊に伴い、1991年にウクライナは独立を宣言し、独立国家として新たな段階を迎えました。
ソビエト連邦が崩壊した理由

〔ソ連崩壊後の独立した連邦構成共和国 11がロシア 〕
スターリン時代からの政治的抑圧や一党独裁制の長期化により、国内の不満や不安が高まり、特に1980年代には、政治的な自由や民主化を求める声が拡大しました。
ソビエト連邦の経済は、中央集権的な体制による非効率性や資源の浪費によって次第に停滞していきました。さらに、1980年代に起きた石油価格の急落といった外的要因も重なり、経済の活力は失われていきます。
ソビエト連邦は多民族国家であるため各地域や民族の独立運動が盛んになり、特にバルト三国〔エストニア、ラトビア、リトアニア〕やウクライナ、ジョージア(グルジア)などでは独立への動きが強まりました。
ミハイル・ゴルバチョフの登場により、ペレストロイカ〔ロシア語の再建築の意味。経済と政治の改革〕やグラスノスチ〔情報公開の拡大〕などの政策が導入されましたが、これらの改革が失敗に終わり、国内外の混乱を招きました。

これらの要因が複合的に作用し、1991年にソビエト連邦は崩壊、独立国家共同体(CIS)として再編されました。
独立国家共同体(CIS)とは?
ソビエト連邦の崩壊後に設立された国家連合で、旧ソ連構成国(ただしバルト三国を除く)が、経済・軍事分野などでの協力と関係維持を目的としています。
現在でもCISは形式上存続していますが、機能は大幅に低下しています。多くの加盟国が関心を失い、実質的な影響力はほとんどありません。特にロシアによるウクライナ侵攻を受けて、ウクライナは完全に脱退し、ジョージアやモルドバも離脱または関係を縮小しています。
現在のCISは、ロシア、ベラルーシ、カザフスタンなど限られた国々による、緩やかな協力体制にとどまっています。
現代のウクライナ(現在)

ウクライナは独立国家として成長してきましたが、政治面や経済面で多くの課題に直面しています。ロシアとの関係悪化やクリミアの併合が近年の深刻な問題となり、これが紛争の原因となっています。
クリミア併合とは?
2014年、ロシアはウクライナ領であるクリミア半島を軍事介入によって実効支配し、最終的に併合しました。
ウクライナ国内の政情不安やロシアとの緊張が高まる中、ロシアはクリミアで住民投票を実施、その結果を根拠に併合を正当化したのです。〔投票はロシア軍の実質的な支配下で行われたため、自由かつ公正とは言えないものだった〕
この行動は国際法に反するものとして国際社会から強く非難され、ウクライナの主権と領土一体性の侵害と見なされました。
この出来事は、現在のウクライナ危機〔ロシアの軍事介入によるウクライナの領土紛争と政治的対立の激化〕の引き金となり、ロシアと西側諸国の関係に深刻な亀裂を生じさせました。

