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【世界のゾッとする歴史の雑学⑤】串刺し処刑 ヴラド3世

【 世界のゾッとする歴史 】

ルーマニアのドラキュラ公

串刺し公の素顔


ヴラド・ツェペシュ、別名「ドラキュラ公」としても知られるこの男の名前は、残虐な処刑の象徴として歴史に刻まれています。


若き日のヴラド:人質としての経験



ヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)は1431年にルーマニアのトランシルヴァニア地方で生まれました。幼少期から過酷な環境で育ち、オスマン帝国との政治的な緊張の中で成長していきます。

オスマン帝国とは?

1299年から1922年まで存在し、アジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがる広大な領土を支配した多文化的なテュルク系(トルコ人)のイスラム帝国です。




父、ヴラド2世は、ヴラド3世とその弟をオスマン帝国に人質として差し出したのですが、そこでヴラドは敵の残虐行為を目の当たりにします。


その経験こそが、後のヴラドの冷酷さと残虐な戦術に影響を与えたのですが、自身の統治方法にも多く取り入れることになります。

〔ヴラド2世〕

父親のヴラド2世はドラゴン騎士団〔中世ヨーロッパで結成された騎士団〕に属していたため、「ドラゴン公」と呼ばれていました。

そして、ヴラド3世は「ドラゴンの息子」という意味の「ドラキュラ」と呼ばれるようになります。

串刺し処刑



ヴラド3世は、防衛戦略家としての能力を発揮し、オスマン帝国との戦いにおいて巧妙な戦術を駆使して何度も勝利を収めました。


しかし、冷酷な支配者でも知られ権力を維持するために恐怖政治〔暴力的な手段により反対意見を抑え込む統治方法〕を行いました。それは敵や犯罪者だけでなく、自らに反対する者すべてを徹底的に処罰しました。


その最も有名な手法が「串刺し」です。


それは長い杭に人を刺して地面に立たせ、そのまま放置するというとても残虐なものでした。それにより「串刺し公」という異名を持つようになります。

※ヴラド・ツェペシュの「ツェペシュ」とは、現地語の「串刺しにする者」という意味。



一説によれば、ある時ヴラドは敵の進軍を防ぐために20,000人以上の捕虜を一度に串刺しにしたと言われ、その光景を前にして食事を楽しんでいたとされています。


ヴラド・ツェペシュは英雄なのか…

〔ヴラド3世が誕生したとされるシギショアラ〕


ヴラド・ツェペシュの評価は二分されます。ルーマニアの一部では、国家の独立を守った英雄とされていますが、西洋の多くの地域では、その残虐行為を非難し歴史上の暴君の一人として記憶されています。

ヴラド3世は、多面的な考え方をする人物としても知られており、一時的な平和も実現したといわれます。しかし国の治安を守るためであったとしても、その手法は非常に過酷で多くの命を犠牲にしたのも確かです。


『ドラキュラ』のモデル

〔ブラム・ストーカー〕


ヴラドの残虐行為は、後にブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』のインスピレーションとなりました。


このブラム・ストーカーの描くドラキュラ伯爵は、ヴラドの残酷さと冷酷さを持ち合わせた吸血鬼として描かれています。実際のヴラドは吸血鬼ではありませんが、その血生臭い統治方法は多くの人々の心に深い恐怖を刻みました。


ヴラドの最期



ヴラドの最期は不明な点が多いのですが、1476年頃に暗殺されたと言われており、その死体はオスマン帝国の兵士によって首を切り落とされ、首はイスタンブールに送られたと伝えられています。


ヴラド・ツェペシュ、串刺し公。


その生涯は残酷な統治者としての側面と、祖国を守るための英雄的な一面がありますが、歴史の複雑さを再認識するひとつの出来事とも言えます。