ルーマニアの「ドラキュラ公」
串刺し公の素顔
ヴラド・ツェペシュ、別名「ドラキュラ公」として広く知られるこの人物は、残虐な処刑法の象徴として歴史に深く刻まれています。
それでは、この恐怖の公爵がどのような人物であったのか、その足跡をたどってみましょう。
若き日のヴラド:人質としての経験

ヴラド3世(ヴラド・ツェペシュ)は1431年にルーマニアのトランシルヴァニア地方で生まれました。幼少期から過酷な環境で育ち、オスマン帝国との政治的な緊張の中で成長していきます。
オスマン帝国とは?

1299年から1922年まで存在し、アジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがる広大な領土を支配した多文化的なテュルク系(トルコ人)のイスラム帝国です。
父、ヴラド2世は、ヴラド3世とその弟をオスマン帝国に人質として差し出したのですが、そこでヴラドは敵の残虐行為を目の当たりにします。
その経験こそが、後のヴラドの冷酷さと残虐な戦術に影響を与えたのですが、自身の統治方法にも色濃く反映されることになります。
なぜ「ドラキュラ公」なのか?

〔ヴラド2世〕
父親であるヴラド2世は、中世ヨーロッパで結成された騎士団「ドラゴン騎士団」に属していたことから、「ドラゴン公」と称されていました。
その息子であるヴラド3世は、「ドラゴンの息子」を意味する「ドラキュラ」と呼ばれるようになります。
串刺し処刑

ヴラド3世は、防衛戦略家としての才能を発揮し、オスマン帝国との戦いでは奇襲や焦土作戦などの巧妙な戦術を駆使して敵を翻弄しました。
しかし、ヴラド3世は同時に冷酷な支配者としても知られ、権力を維持するために恐怖政治〔暴力的な手段で反対勢力を抑え込む統治方法〕を徹底しました。その対象は敵や犯罪者にとどまらず、自らに刃向かう者すべてに及びました。
そして、彼が最も有名になったのが「串刺し」と呼ばれる残虐な処刑法です。
ヴラド3世が用いた「串刺し」は、長い杭に人を突き刺し、そのまま地面に立てて放置するという極めて残虐な処刑法でした。この恐ろしい手法を多用したことから、彼は「串刺し公(ツェペシュ)」という異名で呼ばれるようになったのです。
※ヴラド・ツェペシュの「ツェペシュ」とは、現地語の「串刺しにする者」という意味。
一説によれば、ある時ヴラドは敵の進軍を防ぐために20,000人以上の捕虜を一度に串刺しにしたと言われ、その光景を前にして食事を楽しんでいたとされています。
ヴラド・ツェペシュは英雄なのか…

〔ヴラド3世が誕生したとされるシギショアラ〕
ヴラド・ツェペシュの評価は二分されます。ルーマニアの一部では、国家の独立を守った英雄とされていますが、西洋の多くの地域では、その残虐行為を非難し歴史上の暴君の一人として記憶されています。
ヴラド3世は、多面的な考え方をする人物としても知られており、一時的な平和も実現したといわれます。しかし国の治安を守るためであったとしても、その手法は非常に過酷で多くの命を犠牲にしたのも確かです。
『ドラキュラ』のモデル

〔ブラム・ストーカー〕
ヴラドの残虐行為は、後にブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』のインスピレーションとなりました。

このブラム・ストーカーの描くドラキュラ伯爵は、ヴラドの残酷さと冷酷さを持ち合わせた吸血鬼として描かれています。実際のヴラドは吸血鬼ではありませんが、その血生臭い統治方法は多くの人々の心に深い恐怖を刻みました。
ヴラドの最期

ヴラドの最期は不明な点が多いのですが、1476年頃に暗殺されたと言われており、その死体はオスマン帝国の兵士によって首を切り落とされ、首はイスタンブールに送られたと伝えられています。
ヴラド・ツェペシュ、串刺し公。
その生涯は残酷な統治者としての側面と、祖国を守るための英雄的な一面がありますが、歴史の複雑さを再認識するひとつの出来事とも言えます。

