1月30日に起こった出来事
マハトマ・ガンディー暗殺(1948年)
1948年1月30日、インド独立運動の象徴であり、非暴力主義の世界的な指導者であるマハトマ・ガンディーが暗殺されました。
この出来事は、インドのみならず、世界中に大きな衝撃を与えました。
ガンディーは、「非暴力」と「不服従」の哲学を掲げ、イギリスの植民地支配に立ち向かい続け、インドの独立を実現した立役者として知られています。
しかし、彼のその人生の終え方は、インドの政治や社会に暗い影を落とし、その功績と共に今なお語り継がれています。
ガンディーの人生と思想
〔南アフリカ時代のガンディー (1895年)〕
マハトマ・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi) は、1869年10月2日、インドのポールバンダールで生まれました。
※「マハトマ(Mahatma)」はサンスクリット語で「偉大な魂」や「高貴な魂」を意味する。
イギリスで法律を学び、南アフリカで弁護士として活動する中で、植民地支配の不正を目の当たりにし、非暴力・不服従の思想を形成します。
植民地とは… 他国の支配下に置かれ、政治的・経済的に従属する地域を指します。
ガンディーは非暴力的な抵抗が不正に立ち向かう強力な手段であることに気づき、インドに戻って非暴力と真理を基盤とした「サティヤーグラハ」という独自の運動を提唱しました。
〔塩の行進〕
そして、このサティヤーグラハの暴力を用いずに真実の力で不正に対抗する方法は、インド独立運動の中心的な理念として人々に支持され、ガンディーの指導の下、インド独立運動は大きな進展を遂げます。
インド独立運動の前、インドはイギリス帝国の植民地でした。正式には「イギリス領インド帝国」と呼ばれ、1858年から1947年までイギリスの直接統治下にありました。それ以前は、イギリス東インド会社が支配していました。
東インド会社とは?
その中でも、特に「塩の行進」や「スワデーシー運動 〔不買運動〕」といった象徴的な行動は、イギリス植民地支配への強い抗議として国際的な注目を集めました。
これらの非暴力的な取り組みは、イギリスに対して圧力をかけ、最終的に1947年のインド独立を実現する重要な手段となります。
塩の行進
塩の行進(1930年)は、マハトマ・ガンディーがイギリスの塩税に抗議するために行った非暴力的な抵抗運動です。
ガンディーとその支持者たちは、グジャラート州のアフマダーバードからダーンディーの海岸まで約385kmを24日間かけて行進しました。
到着後、彼らは海水から塩を作り、イギリスの独占に反抗したのです。
この行動はインド独立運動の象徴的な出来事となり、国際的にも大きな注目を集めました。
スワデーシー運動〔不買運動〕
スワデーシー運動(1905年~1908年)は、インド独立運動の一環として、イギリス製品の購入を避け、インド製品の使用を推進する運動でした。
特に、イギリス製の布を拒否し、インド産の手紡ぎ布「カディ」の使用が奨励されました。
ガンディー暗殺の背景
ガンディーの暗殺は、インドの独立とその後の国づくりにおける対立から生まれました。
インドが1947年にイギリスから独立した後、ヒンドゥー教徒とムスリム教徒との間で深刻な宗教的対立が続きました。
そしてインドは、ヒンドゥー教徒の多い地域とムスリム教徒の多い地域で分割され、パキスタン〔ムスリム教徒が多い地域〕という新しい国家が誕生します。
この分割により、多くの人々が家族や家を失い、数百万もの死者を出す宗教的な暴力が広がったのです。
このような状況の中で、ガンディーは両宗教間の調和を呼びかけ、平和的な共存を訴え続けました。
しかし、その姿勢は一部のヒンドゥー過激派には不満を抱かせたとされています。
特に、ガンディーがパキスタンへの援助を提案し、ムスリムの権利を守ろうとした姿勢は、一部のヒンドゥー教徒から強い反感を買い、その結果、彼は暗殺されるという悲劇に見舞われたのです。
ガンディーの暗殺
〔デリーのレッドフォートの特別法廷〕
ガンディーが暗殺されたのは、1948年1月30日のことです。この日、ガンディーはニューデリーのビルラ・ハウスで行っていた祈りの集会に出席していました。
ビルラ・ハウスは、インドのビルラ家が所有していた邸宅で、ガンディーはその庭で集会を開いていました。
その時、犯人であるナトラム・ゴドセ(Nathuram Godse)がガンディーに近づき、銃を取り出して発砲したのです。
〔ナトラム・ゴドセ〕
ゴドセはガンディーがムスリムに過度に寛容だったとして反感を抱いており、ガンディーの死によってインド社会を「ヒンドゥー教徒優先」に戻そうと考えていたとされています。
ガンディーを裏切り者と考え、その行動に対する怒りから犯行に及んだのです。
ガンディーは、撃たれる直前に「ヘーラム」と最後に言葉を残し、静かに倒れたと言われます。この言葉は「神よ、平和を」という意味を持ち、彼の非暴力的な精神が最後まで貫かれた瞬間でした。
ガンディーの死はインド国内外で大きな反響を呼び、数日間にわたって喪に服す期間が設けられました。
ガンディーの遺産と影響
ガンディーの死後、インドは深い喪失感に包まれましたが、彼の思想と功績は今も色あせることなく生き続けています。
そしてガンディーが示した「非暴力」という原則は、インド独立運動にとどまらず、世界中で数多くの運動に影響を与えました。
ガンディーの平和と愛のメッセージは、現代社会においても大きな力を持ち続けています。
インド国内でも、ガンディーの誕生日である10月2日は「ガンディー・ジャヤンティ」として祝われ、非暴力と平和の精神を後世に伝え続けています。
最後に
〔ガンディーの葬列〕
ガンディーの非暴力の哲学は、死後も多くの人々に影響を与え続けています。
例えば、
アメリカの公民権運動〔人種差別撤廃と平等権の確立を目指した社会運動〕を率いたマーティン・ルーサー・キング・ジュニア。
南アフリカのアパルトヘイト廃止〔人種隔離政策の撤廃と人種平等の実現のための運動〕を目指したネルソン・マンデラといった世界的な指導者たちは、ガンディーの思想に深く感化されました。
彼の哲学は、現在でも平和と正義を追求するための普遍的な指針として尊重されています。
マハトマ・ガンディーの生涯は、非暴力の力が世界を変える可能性を示した実例でした。その思想と行動は、時代を超えて人々に影響を与え続け、現代社会においてもなお輝き続けています。